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ずーっと、もやもやしていました。
無職・イン・レジデンスのことを考え続け、第1弾の実施が終わってからも、そのこととはなんだったんだろう、それを他者にどうやって伝えれば、あの謎そのものが轟いていたような時間を保存するようなことはできるんだろうか…はやくドキュメントつくらなきゃなあって、逃げては追いつかれ、胸が詰まっていました。でも、無理。どうやっても文章ではこぼれおちる。ならば、少しだけでもあらわしておこう、ようやく今朝そう思えました。
そして、レジデンスしてくれた無職に対しては、その期間中「期待しない」ことを約束として掲げていたのですが、レジデンス期間終了後、よかったらレジデンス感想文を書いてほしいとお願いしました。僕のテキストの下部には、レジデンス無職と無職研究室員の感想文を提出日順に並べています。読んでいると、泣けてきます。表記ゆれなどもそのまま掲載しています。
今回レジデンスしてくれたのは、最初に応募してくれた方は採用後その方の事情により辞退されましたが、記憶が正しければ応募順に、武田力さん、中尾洋子さん、澤田萌子さん、上原岳さん、風間今日子さんの5名になります。レジデンスしてくれて、本当にありがとうございます。
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ここ2〜3年程、「無職・イン・レジデンス」という言葉を発明してからというもの、それはどういうものなんだ?と自問したり、周囲に相談し続けてきました。
今回の実施の条件を自ら定めました。それは、募集するレジデンス無職は、僕と直接的な知り合いでない成人していてニックネームでもよいが公に存在を明らかにしてもよい方であること、僕がレジデンス無職(当初は1名のみの募集だった。理由は僕のポケットマネーが底をついてしまうだろうと)とともに19日間滞在すること、僕はレジデンス無職に期待せず、「最低限の健康的で文化的な生活」を僕がレジデンス無職に保障すること、です。※詳しくは、当サイトにアップしている募集チラシのPDFデータをご覧ください。
ようやく実現したのは、2015年になる前後、僕が失恋をしたのがひとつのきっかけでした。それに加えて、無職・イン・レジデンスのパクリがあらわれるそうだという噂をきき(結局、噂で終わったのですが…)、その瞬間ぼくの中で火がつきました。火、どころか大爆発を起こしました。すぐさま行動に移しました。そこに応えてくれたのが、このウェブサイトをつくってくれている小関幸さんであり、此花区で様々な取り組みをされている大川輝さんでした。この頃、僕は此花区に住んでいました。
本当にすぐさま、大川さんから改装前の物件をお貸しいただけることになりました。そして、1ヶ月も経たないうちに、正確には半日でチラシをデザインしてもらい(ぼくは写真とテキスト、ディレクション的なことしかしていません)、ウェブサイトでもレジデンスしてくれる無職を募りました。そこからはバンドメイツかつ無職研究室員のYukoNexus6さんの協力もありながら大阪だけでなくレジデンス無職募集の広報旅を進めながら、レジデンス会場の掃除(元個人経営の居酒屋さんでしたので酒瓶などそのまま、物が大量にありました。)…ネズミの糞や朽ちた床材の撤去…神棚はどけるべきか…どこから手をつければ…そうそう、ここでも大川さんが壊れた冷蔵庫や空き瓶などの廃棄物を業者さんに頼み見事に撤去協力してくださったんだった…mizutamaくんにも掃除や開催期間中にカレーをつくりにきてくれたり、とにかく気にかけてもらい応援してもらったなあ。
それから…順序はあいまいだけれど(写真の日付であとで確認してみます)HAPS(という名のアートセンター)のウェブサイトのレジデンス情報欄に、こちらから依頼されていないのに掲載されていたり。ありがたいことです。無職・イン・レジデンスはアート、ではないと思いますけれども。このウェブサイトをみて、武田力さんは応募を決めたようです。SjQというバンドの手伝いに行った先、東京都庭園美術館にてその日限り(と思われます)チラシを置かせてもらえたり、これは奇跡的だなあと思います。庭園美術館は、自主企画のチラシしか置いていらっしゃらないようでしたから。そのバンドの本番前に、Yukoさんから編集者をご紹介いただいて。募集、広報のことはこれくらいにしといて…でも、僕にとっても全貌が掴めていないこの取り組みに対して、想像以上の反響をもらえて、だからこそ、レジデンス無職に応募いただけ、その後につながったと思います。
僕が逆面接してもらったこと。
レジデンスしないレジデンス無職の方である(中尾)洋子さん、(澤田)萌子さん、みかんくん(上原岳さん)、風間(今日子)さんが現れてくれたおかげで、懸念していた予算不足を乗り越えられると判断できたこと、でも、結果的には破産したこと、岡山への旅行が期間中にあって、武田力さんだけはついてくるとのことだったので個人的には資金面で大ダメージだったこと、でもそんなことがあったから夜中に突然岡山で知り合った方々がレジデンス会場に来てくれて、りっきー(武田さんのことを当時からこう呼んでいた)や地域の人も交えて対話が起こったこと、とにかく無職・イン・レジデンスは作品なのか?ということをりっきーと議論し続けたこと、失恋で心に痛手を負った友人がシェルター的に極限状態のときは利用したこと、恋のようなものが起こったこと、
なんだか、情報という情報、現象という現象が空気を圧縮していき、短期的に脳が擦り切れるほど回転していました。全部日常で、日常的で。
同時期に知的障害者の方の作業所で創作補助的な業務を担って働いていたのですが、どうにもこうにも、この無職・イン・レジデンスが起こっている空間に身をできるだけ近づけたくて、もちろんその職場に対しての積もった想いもあり、その仕事を期間途中、ちょうど中間地点くらいに突然辞めることを告げ、多大な迷惑をかけました。その翌日からは会社を休み続けました。
レジデンスが始まる前に一度支援をお願いしたとはいえ、もともとあった「このはな」コミュニティの力を感じたのですが、日々日々、見学者が次々に来て、そして手土産に食材をたくさんもらいました。スタート直後、CAPに不用品をもらいにりっきーと行き、実家の自家用車パンパンに荷物を詰め込んだり、その時にりっきーが荷物をすっきり詰め込む技術を見せつけてくれて高校生の頃引越しバイトをしていたことを知ったり。僕は、親心かなんなのか、最低限の健康的で文化的な生活と言いながら、もらえるものは全てもらってなんとかこの場所を快適にしなくては、と躍起にやっていました。岡山旅の前夜、りっきーとYukoさんちに泊まりに行く道中、元々職場の同僚宅にも陶器やガスコンロ(ガスなんて引かれていなかったのに)をもらいに行ったり。今でもその荷物のほとんどは実家の部屋に詰め込まれています。
ああ、そういえば、思い出としては、初夜が春とはいえ氷点下を下回り、割れた窓ガラス、気密性ももちろん断熱材も使われていそうにもない木造住宅で寝袋ひとつふたつで寝ていた、りっきーと僕は、うっすら死を覚悟したんでした。りっきーは翌朝あたりに「横浜に帰ろうかと思っちゃったよー(笑)」と冗談を言えていたので、よかったです。それから石油ストーブで1階…あ、この会場は1階が居酒屋だったので、カウンターが残っていたり、トイレも1階でしたね。後に、ふらりと覗いてきたおじさまがここの2階に居酒屋が仕舞われるまで住んでいたらしく、3部屋全てで家賃も安かったから助かったんだよーと、灯りがついてるから、この店を経営していたおばあちゃん、去年の段階ではご存命とのこと、の親戚か誰かが何かをやっているのかなあと、懐かしくなってつい入り口の扉を開けてしまったと。こういうこと、あるんですね。こういうコミュニケーションは初めての経験でした。ちょっと、また泣きそうになりますよ。
ああ、話は戻り、1階で石油ストーブを焚き、2階の別々の部屋で眠っていたのですが、これまた翌朝起きたら事件が。真っ黒な鼻水が出たんですね、お互い。なんなんだと、これは。石油ストーブのススだと知るのに1日以上はかかったような気がします。
ついついりっきーがレジデンスしていた時間が長い為、彼との思い出話が中心となってしまうのですが、みかんくんが新聞配達の住み込みバイトをしていて、寮住まいだったわけですが、確か最後の夜だったかな、夢だったという押入れで寝袋で眠るということをしにきてくれたり、彼の依頼で期間中に、僕はつくったことのないラップのトラックをつくってみたり、それを近くでmizutamaくんがやっているスペースFIGYAで公開レコーディングしたり。みかんくんは、とても社会に憤りを持っているように見受けられて、思い詰めているような発言も多く。でも、キャラクターはとても陽気で、Yukoさんと波長が合っているように見えたなあ。彼はレジデンス期間中に面接をしてくれたんだったっけ。風間さんは確実にそうだったな。問い合わせはかなり早い時期にもらっていた。風間さんは、レジデンスする立場なのに、この場所を記録したいと提案してくれて、定点記録写真撮影の方法を誰もいない時に、スケッチブックに丁寧に手書きで文字や図を記入した指示書を置いていってくれた。 萌子さんはとても不思議な人だった。独自の言葉と振る舞いを持っていて、主に思春期のことを振り返って話した。洋子さんも、通いでレジデンスしたい、様子を見ながら参加したいとのことで、電車賃のことを気にかけてたので、それは最低限払いますと申し出たのに、遠慮されてしまって…後悔。りっきーは、何から何まで、この「最低限の健康的で文化的な生活のライン」を探るために、僕に何度もレシートを突きつけ、議論を引き起こしてきました。その都度、僕から支払う額を理由を添えて提示し、話し合いました。それは彼の親切のようなもので、無職・イン・レジデンスならではのコミュニケーションを意識的にとってくれたのでしょう。
またまた唐突ではありますが、結局、この取り組みは芸術作品として扱われるものではない、というのが今の僕の決意ですけれども、メッセージとしては、「最低限の健康的で文化的な生活」を誰が論じていて、それをおしなべて最適であると決定できるのだろうか?という僕自身の社会に対する問いがあることは確かです。それぞれの事情は制度に反映されていて、不安なく、日々を送れているのだろうか?いや、そんなことはない、と。ならば、主に成人、社会人が、せめてその期間だけは、金銭的に、精神的に、安心して過ごせる空間、「次」を迫られないこと、を用意できたときに、人の今までとは違った社会への再接続や、潜在的な能力があらわれてくるんじゃないだろうか、とこの活動を行いたいと思った、ある種の目的というか試みの核だと今でも捉えています。そういう空間を用意できたか、それぞれのレジデンス無職にとってどうだったのか、厳密に計ることができなかったからこそ、こうやってもやもやと、ドキュメントにできない僕がいるのでしょう。自分自身が欲しいしくみのようなものや空間、この感じ、そして自分みたいな人に出会いたいのかもしれない。決して同族意識ではない。それは達成できたかもしれません。個々人の世界や思考はきっとこうやって拡がっていくのだと、まだ、ここ、だけに留まらず、やっていきたいです。