木曜日は、タカハシセイジさんの無職・イン・レジデンスの報告会に参加する。怒りが動機としてあると聞いた時に腑に落ちる気がした。
「働いていても職がない状態が存在している、つまり全人類、みな無職である」という言葉は、松本哉さんが実は全ての人が貧乏人だといっていたのと通じるところがあるのかなと思ったり。
「無職」と「貧乏」はともに持っていないということが共通点かと。
「普通」とかいうと、それだけで何かが隠される。全ての人は貧困だ、といってみると、見えないようにされていたものに向き合う意識になる。いつまでたっても全ての人は貧困だ。
そうするとフラットだし、やさしさが生まれる。どうであれ生きていくし、足りないから、よくも悪くも何かを生みださざるを得ない。
報告の後、お好み焼き屋に行って3人で3時まで話しをした。
アートの話しは門外漢だけれど、見えない関係性の動きをとらえ、固まってしまった構造を破綻させるようなところは、僕が関心を持っているところと通じていると思う。
自分と違う角度やアプローチで探究され、確かめられたものの話しをきいていると、それは欠乏していた栄養素みたいに体に入ってくる。
自分は、いわば話しの貧困のなかにいた。一般論はどうでもよくて、誰かにとって需要が大きく切実で、それに対する供給がなければそれは貧困だと思う。
必要な話しに出会えない。やりたい話しができない。自分の関心と人の関心が違う。大学時代からどうすればこの話しの貧困状況を変えられるのかと不十分ながら試行錯誤してきた。
自分が自分の分野で確かめてきたことや確かめつつあることと、自分と違う分野の人が追究して確かめてきたことが重なる構造を持つという時に、僕は満足な話しができた気がする。
自分が詰まっていること、時代が詰まっていることをどこかの誰かはピンポイントで悠々と超えていて、しかもそのことは当人にとって当たり前すぎて、
その超えている意味合いに気づいてすらいないということが、世界にありふれている。話しを聞くときの満足感はあとそういうところにもあるなと思う。
[ 2016.12.6(tue) 0:45 ]
米田量
1975年生。中学2年で不登校になり、人間の変化、回復に関心を持つ。
大学では臨床心理学科に入るも「治療」という設定ではない変化の場を探して変化に関わる周辺領域に目を向けはじめる。
大学院では人類学に移り、四国八十八カ所めぐりを研究。
転機にある人が巡礼を利用し、変化していくあり方を探理、変化は人に内在する自律性の展開であり、自意識のあり方を含めた環境の整えと阻害要因の取り除きが重要であると知る。
2014年にアズワンネットワーク鈴鹿コミュニティに出会い、自分に取り込んでしまい自動化している思考様式、反応様式を対話による観察によって脱していくあり方を知り、
最近はそこに準じるアプローチとして哲学カフェ、当事者研究、オープンダイアローグ、インプロなどを組み合わせた場を模索中。
共著に『幸せをはこぶ会社 おふくろさん弁当』(アズワンネットワーク出版)
降りていくブログ ー生き残りながら回復していくためにー
無職研究室員コメント及び所信表明
無職研究室員(関西支部/2015年2月17日現在)からコメント及び所信表明が発表されましたので、お読み下さい。
(無職研究室員になった順にしようかと思ったのですが、記憶が曖昧なためメールが届いた順番で記載します/なった日にちを正式に割り出すことは可能ですが、割愛。だいたい2014年末からです)
(文:無職研究室室長 タカハシ ‘タカカーン’ セイジ)
Yuko Nexus6
おとにきく たかしのはまの あだなみはかけじやそでの ぬれもこそすれ
男もすなる就職といふものを女もしてみんとてするなり……男女雇用機会均等法元年(1986年夏)に就職活動を行った。恋人に振られた傷を忘れんとて思いっきり受けまくって落ちまくる。梅田のビジネス街をスーツで歩いてると泣けて泣けて袖をしぼるばかりなり。「大阪にいたら彼のことを思い出す。苦しい!」と、一件だけ内定くれた会社(のちにブラック企業と判明)拝み倒して東京配属にしてもらう。1987年春上京。
1987年末ブラック企業退社。編集プロダクションに拾ってもらって翌年より勤務。いとをかし!自由裁量制。やることやってりゃ出社も退社も時間は自由。徹夜ハイで自らを「出来るコピーライター」と誤解。時代はバブル。不摂生生活を極める。
1990年代に入る頃から、休日といえば一日中蒲団にくるまって過ごすようになる。別に落ち込んでるわけじゃないけど何もしたくないしだりぃし。酒量増える。同時に奇妙な万能感に襲われていきなり会社をひと月休んでアメリカ西海岸を旅したり。当然帰ってきたら解雇。でも気にしない。私、人気あるから、すぐ別の会社が雇ってくれたし~。
1993年、また瀕死の重傷クラスの失恋。東京にいるのが嫌になり、サンフランシスコに3か月。はじめて「フリー」という名の完全無職状態を経験。でも、あっちの人って、あくせく働かなくてもなんとかやってるし、職よりも大事なことに重きをおいて生きてるよなぁ~って思ふ。
帰国したら阪神淡路大震災とか地下鉄サリン事件とか色々あって、1996年から近江の国で暮らすことに。黎明期のインターネットと格闘しつつフリーライターとしてちょびちょび仕事するも実質は主婦状態。なんかモヤモヤ。
日々をごまかしてるうち、声かけてくれる人がいて2001年春から大学の非常勤講師を体験。あ、これ、楽しいかも。充実するかも……と気をよくしていたら2002年春、鬱病発症。かへりみれば90年頃の過眠(と時々のハイ状態)から病は潜行していたらしく、以後双極性気分障害に翻弄される。調子いい時は楽しくて仕方ない学生さん相手の仕事も、鬱の波に見舞われると難行苦行に。「大丈夫だ。死なない。死なない。きっと良くなる。良くなる。飛び降りるな。飛び降りるな」と唱えながら、校舎の渡り廊下を歩いていた。あまりのことに2007年度で、2つあったうち一方の非常勤を辞めさせてもらう。これで無理なく仕事楽しめるかな、というのは大甘で、もう一方の大学からは切られる。2008年春、完全失職。ガッカリして8ヶ月寝込む。鬱最悪。
それ以降、家族に食べさせてもらう無職状態を何年も。くりかへす気分のあだ波に、起き上がっては倒れることの繰り返し。危なっかしくて怖くて求職活動をしようという気も起こらないまま年齢だけが上がっていく。「パートさん募集!45歳ぐらいまで」……って、もうあかんやん、あたし!
とかなんとか“大人の引きこもり”を極めていた私ですが、たまたまお食事会で隣に座ったタカハシ室長から「無職・イン・レジデンス」と書かれた名刺を渡され、そのインパクトにノックアウトされ、興味を持ち、室員となって現在に到ります。あれ、最近、なんかメンタルの波が穏やかになってきたかも。宿命的だった肩こりもマシになったかも。無職・イン・レジデンス、美容と健康にいいかも???
[ 2015.1.27(tue) 11:43 ]
Yuko Nexus6
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松本 渉
コメント
無職研究室がどういうとこか、まだよくわかりません。無職や研究と関係あるのか、あるいはそうしたものと全く関わりなく、別の何かを達成する場所なのか。それらは全て謎に包まれたまま。そんなふりをしている。
[ 2015.1.27(tue) 17:52 ]
松本渉(まつもとわたる)
松本渉です。職業 アルバイト。社員歴なし。年齢 50歳。年収 約200万円。貯金なし。最終学歴 高校卒業。最近、原因がよくわからないんですが、股関節に水がたまって歩けなくなりそうでした。今、松葉杖をついて歩いています。こないだアスファルトの上で乾きそうになってたミミズを助けました。
田中 保帆(2015.5.7 退室)
【所信表明】
「もう分かった」と思ったとき、人と人とのコミュニケーションは終わる。 そういう話を誰かとしていたころに、無職研究室が設立されました。
「研究」ということは終わりがないということです。
私が接してきた障害をもっている人たちや釜ヶ崎のおっちゃんたちはどうも私とは文化圏が違っているようで、思いもよらない言動をして私を驚かせてくれます。
「もう分かった」なんて、これっぽっちも思わせてくれません。
知れば知るほどに、相手のことはおろか自分のことすら分からなくなる。 あなたと私、常識と非常識、日常と非日常…ありとあらゆる境目が曖昧になっていく。 私はそれをたまらなく楽しく感じています。
無職とは、働くとは、研究とは…
答えのない問いをぐるぐる考え続けること。 全然分からないけれど、いや、分からないからこそ、 そこには確かな豊かさがあるように思います。
[ 2015.1.27(tue) 23:29 ]
田中保帆(たなかやすほ) Twitter
1988年大阪生まれ。保育士。京都造形芸術大学こども芸術学科1期生。
2011年4月~2014年7月NPO法人クリエイティブサポートレッツ、アルス・ノヴァに勤務。
主に障害をもつこどもとあそんで過ごす。
お酒と料理と旅が好き。NPO法人ココルーム、臨時スタッフ。
メリ山ケン太
そもそも「職」とは何か?
職→役目柄に対しての仕事/生計を立てる為の仕事。
との、事らしい。
一般的に「無職」と言うと後者の「生計を立てる仕事をしていない人」と思うわけで。私もそうだと思っていました。
しかし、これを前者とし、聞き馴染みのある言葉に言い換えると「自分探しをしている人」になるのではないのか。
そんな所に思い至りました。
自分がなりたいモノもわからないのに、何者かになりたいと思う人が増えたと思います。
随分と贅沢な悩みだと思います。
しかし、そういう人が多いのであれば。悩み解消の為のノウハウが存在すれば、何方様かの役には立つ様な気がします。
その為に有る「無職研究室」ならば、参加するのも面白いのではないか。と。
生計の立つ仕事をしていなくても、例えば誰かの為に拵える飯が美味い。パソコンで困ったら助けてくれる。ソレも立派な「職=役目柄」だと思います。
タカハシくんの掲げる無職IRと、私の思う所が噛み合っているのかどうか。更に具体的にどんな活動をするのか。全てに於いて謎なのですが。
ソレでも良いなら良いんじゃないか。ソレで良いんやと思います。
[ 2015.6.11(thu) 20:37 ]
メリ山ケン太 Twitter
1979年10月生。
愛知県名古屋市出身、18歳の時に大阪芸術大学文芸学科入学に伴い大阪に移住。
21歳から音楽企画を始め、24歳でインディーレーベルSUTEKI RECORDを始めるも第一次結婚・就活ブームにより看板バンドが活動休止。仕方がないのでレーベルも活動休止。
28歳に御縁があって、大阪の老舗レーベルGYUUNE CASSETEのスタッフとなり、傘下レーベルとしてmediscoを開設。
30歳で第二次結婚・就活ブームが来るも、完全に乗り遅れてしまい、人生にブレが生じる。
「手に職が就きますよ。」と言う甘露な言葉に惹かれて諸口流断易(易占)に弟子入り。
まさかの占い師見習いとなる。
現在は派遣OLとして日銭を稼ぎつつ、気紛れに音楽企画や占い業を行っています。
大阪と名古屋を行き来しながら楽しく暮らしています。
将来の夢は、伝統工芸士になる事です。(オプションで占いも出来ます。)