イベント報告

2018.3.11『集落の「中の人」はどう見たのか、方言を習うことについて』

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本稿は、2018年3月11日(日)14:00-16:00 フラッグスタジオにて開催された報告会『集落の「中の人」はどう見たのか、方言を習うことについて』(主催:タカハシ ‘タカカーン’ セイジ、「芸術と福祉」をレクリエーションから編み直す)をテキスト化したものです。

登壇者※敬称略:
プロジェクトメンバー/捩子ぴじん、秋田光軌、アサダワタル(協力者)、池上綾乃、持木永大、タカハシ ‘タカカーン’ セイジ(主宰)
NPO法人おひさま/原博美(理事長)、駒崎順子(放課後等デイサービス事業所 さんさんくらぶ 管理者)、髙橋誠司(さんさんくらぶ 常勤職員)

2018.3.11『集落の「中の人」はどう見たのか、方言を習うことについて』
タカハシ ‘タカカーン’ セイジ(以下、タカハシ):

こんにちは。お忙しいところをお集まりいただき、ありがとうございます。
本日の’途中’報告会なのですが、『「芸術と福祉」をレクリエーションから編み直す』という名前のプロジェクトを2017年1月に企画したのですが、実動は7月くらいからで、現在で実質半年間ほど行ってきたことについてお話できたらなあ、と。

プロジェクト設立の経緯を簡単に述べますと、僕自身が常勤職員として勤めている福祉施設「(NPO法人おひさま)さんさんくらぶ」という名前なんですけれども、そこで働きながら個人的にも表現活動をしていて。
職員でありながら個人の表現者として、さんさんくらぶをリサーチ対象に今回のメンバーによるプロジェクト・チームをつくって、一体何がやれるんだろうかということを考えたいなと思いやり始めました。
この福祉施設は「放課後等デイサービス」といって、後ほどで本日のゲストで来てもらっているさんさんくらぶの上司である駒崎順子さんにお話をしてもらいたいと思っているんですけれども。
まず今日の登壇者を順番に。いいですか?

捩子ぴじん(以下、捩子):

ダンサーの捩子ぴじんといいます。
今回タカハシさんから企画にお声掛けいただき、参加しています。
2017年夏からタカハシさんが働く職場に通っているのですが、最初にタカハシさんから話を聞いた時に「面白そうだな」と思って参加したんです。 2016年11月に埼玉県のある福祉施設でそこの利用者とパフォーマンスをつくって発表するという企画に参加したんです(https://saitamatriennale.jp/event/2148.html)。

企画タイトルにある「芸術と福祉」という言葉がありますが、僕はどちらかというと芸術側に所属している人間で、福祉の現場で何か仕事をするというのはその時初めてだったのですが、その体験がとても面白かったので今回参加を決めました。
自分自身が、あるクローズドな空間劇場だったり、ギャラリーやダンス、演劇だったりの中で仕事をしてきたわけですけれども、その仕事で培ってきた技術が通用して思わぬ役割を果たすこともあれば、全く通用しなくて心折られる経験もして、その体験がとても面白かったので、今回引き受けて今日もここに来ております。

池上綾乃(以下、池上):
話を誘った順に…
タカハシ:
誘った順なら、次は光軌さん。
秋田光軌(以下、秋田):
お坊さんをしております、秋田といいます。
浄土宗應典院という演劇の劇場も運営しているお寺が大阪の日本橋・難波の辺りにありますけれども、そこの者です。
はじめこのお話をいただいた時には「何をやるんだろうなあ」というような気持ちもあったんですけれども、彼の関心というのがすごく大事なことを恐らく言っているのではないかなという直感めいたものもあり、また元々友人関係ということもあって、その船にぜひ一緒に乗ってみて、どんな航海になるのかということで、誘いに乗りました。 私は、芸術も福祉も専門家ではありませんで、宗教家とか、むしろ外の立場から何か物事が言えたり、提案等が出来たらいいかなとそういう風に自分の役割を捉えながら、半年間ほど一緒にやらせてもらいました。
それについても後程またお話しさせていただければなと思います。よろしくお願いします。

アサダワタル(以下、アサダ):
アサダワタルといいます。
広い意味で芸術活動をやっていて、その活動を執筆する「アーティスト/文筆家」ということで仕事をしています。
元々ずっと音楽作品を創ったりしてきたのですけれども、(出身地である)大阪でも、芸術関係で色々な街に関わったりとか、それこそ障害福祉と世にいわれるような分野でここ10数年間、様々な現場に関わってきました。
そこでやっていることは1人のアーティストがモノをつくるというよりは、寄せ集まった人達の感性とか知恵が、広い意味での技術のようなものが、合わさって、よくわからないもの・場がつくられていく、そういったものを「アート・プロジェクト」という言い方をしたりするんですが、それを企画・演出したり、そこで得られた考えを自分で本を書いて出版するということを仕事にしています。
今お伝えした通り、僕が元々、福祉とアートの、タカハシさんが言うような接点に関心を持ち始めたのが、ちょうど10年数年ほど前です。まず最初に、大阪・西成区にある「ココルーム」というNPOに2004~06年あたりに働いていました。
西成で生活されているおじさん方や、主に身体に障害のある方々とその支援者の方々と演劇をするというようなことに関わり出しまして。
その後に、滋賀県に「ボーダレス・アートミュージアムNO-MA」という場所があるんですけれども、そこの関係で様々な福祉施設に訪問している中で音楽のワークショップをさせてもらったりなど、そこですごく面白い造形作品をつくられる方と出会い、その辺りから自分自身の関心が「福祉の中から生まれる表現」ということにも向いていきました。
当時、よくわからないテンションでヘルパー2級の資格を取り、福祉の現場でちょっとだけ働いたりもしたんですけれども、結局自分の軸が芸術の方にあるなと気づいた後も福祉施設等に関わりながら現在に至っています。
そういう経緯でこの「芸術と福祉を編み直す」というテーマをタカハシさんが考えた時に、「協力者」という肩書きでプロジェクトの案内には載っているんですけれども、自分がやれることは、今現在大阪を離れているということもあり、直接この現場に関われないなというのが個人的にありましたし、タカハシさん自身がこのことに関心を持っているというのが数年前から知っていたので、自分なりに関われることがあれば協力するよということで「謎の協力者」ということで参加しています。
なので、本日話されるさんさんくらぶの現場には一度も行ったことがありません。
その立場で自分が他の所で見てきた景色から色々考えられたりとか、モヤモヤと話してきたこととかを一緒にこの場で話させてもらえたらなあと思っていますので、よろしくお願いします。
池上:
埼玉県に住んでいる池上綾乃といいます。
私は、大学で演劇の研究をしたり、実践をしたりということをやっていたのですが、アサダさんの言っていたアート・プロジェクトというようなものもやっていたりしていて、舞台の中でも「ザ・演劇」みたいなことにはあまり関わってきたわけではないのですけれども、タカハシさんからこの『「芸術と福祉」をレクリエーションから編み直す』という企画の話を聞いて、なんでやってみようかと思ったのかというと、いくつか理由はあるのですが、そのひとつに、私が東京近郊に住んでいて、主に東京で活動しているのですけれども、東京オリンピック等の影響で、オリンピックをやる際にはスポーツと同じように文化の面でも色々な活動をするということが定められていて。
パラリンピックというのもありますし、障害を持っている人とのアート活動も最近すごく盛んになってきている状況があるのですが、その中でたとえば「障がい者のための舞台芸術祭」という場がある中で、「障がい者のための」とはどういうことだろう、とか。そういう風に「障がい者をサポートするために」というような場には居にくいなというか。そうではない関わり方を色々模索したいなと思っていた時に、タカハシさんから「レクリエーションから編み直す」という話があって。
レクリエーションとは、勉強や仕事の疲れを癒すものであったり、お休みであったり、楽しみ、余暇そのものであったりと辞書を引くと出てくるのですが、芸術家にとっても、福祉に関わる人にとっても、レクリエーションであることが芸術と福祉を考える時には大切なのではないかなと思って。
このプロジェクトでは、そういうことを考えていきたいということで参加しています。
でも、埼玉在住なのであまりさんさんくらぶに定期的に通えているわけではなくて、タカハシさんや捩子さんから話を聞いたり、あとは一度夏に日帰りキャンプをさんさんくらぶの子ども達やスタッフの方と行くことがあり、そこに参加させてもらったことがありました。
持木永大(以下、持木):
プロジェクトに参加させてもらっている持木と申します。
僕は美術系の大学を出て、今はフリーターをしています。
このプロジェクトに参加させてもらったきっかけは卒業制作で、幼少の頃会わなくなった障害をもった同級生やそのクラスメイトをテーマに作品をつくったことがあって、ということが心の中にあって。
(自分自身の過去としての)思い出になっていない子ども達、障害を持っている子どもたちと新たに接してみたいなと思ったのが参加する動機であったりします。はい、以上です。
タカハシ:
では、今日のゲストの駒崎さん、原さんからもぜひ自己紹介を。
原博美(以下、原):
「NPO法人おひさま」の原と申します。
法人を立ち上げて7年目になります。
その前は、大阪市西淀川区で20年間ほど子育て支援をずっとやっていました。
なぜ子育て支援かといいますと、年子の子を授かった時に非常に問題を感じて、いじめだとか閉塞した社会の空気の中で子育てをするのはすごいしんどいなというのと、私は広島の因島という田舎から看護師になる為に都会に出てきたのですが、地縁のない中で子育てをするという不安の中で、次女が癌の疑いが出て、今度は命と向き合うことになり、色々なことで「子育てって大事だな」と思っている時に「仲間づくりが子育てを楽にする、楽しくする」という提言を聞いて、子育て支援を手探りで始めました。 その活動の中で駒崎さんとは知り合うことになるのですが、「それいいなと、自分でもできるな」と思ってやりはじめたことが20年間続いてきて、立ち返ってみた時に、やっぱり子育てだけじゃなく、高齢者や障害者の人とが繋がることですごく元気になるという富山県の事例を知り、片端で看護師の仕事も続けていたので、今後はこういうことに取り組みたいという気持ちになって、7年前にNPO法人おひさまを立ち上げることになったんです。何から始めて良いかわからなく、お金もなく夫婦で始めたのですが、まずは自分ができるケア・マネージャーという介護の事業を始め、訪問介護を立ち上げ、次に、子どものことを極めたいという気持ちもあり小規模保育所を始め、そして放課後等デイサービス、児童発達支援と続いて立ち上げました。
(放課後等デイサービス、児童発達支援については)駒崎さんという友人がいたからできるんじゃないかと声を掛けてはじまり、今に至るのですが、(放課後等デイサービス事業の運営を通して)タカハシ君に出会って、芸術家が入ってくれるってすごいなあと、いいスパイスだなあと思っています。
駒崎順子(以下、駒崎):
さんさんくらぶの管理者の駒崎です。私は姫路で生まれて育って、仕事で養護学校の先生になりたいなあと思って勉強して、先生になるところで結婚し出産することになり、仕事は続けたかったのですが、泣く泣く姫路から100キロ離れた知り合いが誰もいない大阪に結婚して来て、寂しい子育てをしているところ、大学時代の先生が、原さんが今言っていた「心の子育てインターねっと関西」というのですが、「おかあちゃんのサークルが大事よ」っていうことで集まりに行ってみまして、「(子育て)サークルって大事だよなあ」と思って、私は大阪市西区在住だったんですけども、原さんが西淀川区で。
「子連れおでかけマップ」というのを作るためによく会っていた時代もありつつも、子どもが大きくなってそれぞれの区で頑張っていたという感じで、その間、私はヘルパーをしたり、ボランティアでは読み聞かせサークルとかいろんなことやっていて。
あとは、旅が好きで、沖縄に子連れで行った時に織りに出会い、そこから割とアートのことにグーっと入っていったかなという感じで、大阪市港区で子育て支援の「つどいの広場」を立ち上げた時に、たまたまアサダさんと出会った場所である「築港ARC」に時々遊びにいったりして、絵本が好きだからって「家庭文庫やってんねん」「あ、それ住み開きや」ってアサダさんに言われて、住み開き企画に呼んでもらったりして、というのがあって。
大阪市西区安治川のイベント・スペース「FLOAT」でタカハシ君に出会って、そういう流れがあった頃に原さんに誘われて「さんさんくらぶ」を立ち上げて、そこにタカハシ君がフラッと遊びに来てくれて、子どもとの関わりがいい感じだったから(働きに)来てやってという感じで。
タカハシ:
すぐにバイト決まりました。さんさんくらぶはどんな場所でしょう?
駒崎:
さんさんくらぶは、障害児の児童福祉法に則った放課後等デイサービスという制度の中でやっている通所の療育施設です。
でも、私は色んな人と共にっていうのが好きだから、障害児を隔離するような施設は嫌やと思って、なんとか外にドアを開く仕組みないかなと思った時に「まちライブラリー」というものがちょうど流行っていたので、「この仕組み活かせるわ」と思って、「まちライブラリーやっています」ということにして「誰でもどうぞ」という仕組みをつくってやりました。
でも、施設の前の道を皆がいつも通っているという感じでもないので、バンバン入ってくるわけではないですが、でも想いはそうです。
あと、療育の柱は「生きることは食べること」ということで、みんなで毎日ひたすら料理をするということをやっています。
でも、アートが好きだから合間縫っては色んなものをつくる、そういうことをやっています。
タカハシ:
来ている子どもたちは小1から高3まで。
駒崎:
そうですね。「放課後等」だから、放課後という時間を持っている小中高生の子どもたち。4月からは児童発達支援事業所を始めて未就学の障害を持つ子の施設。大概は小さい子を預かって親御さんがその時間に仕事をやるのですが、私たちは「子育てしんどい」のを知っているから、さらに障害を持っている人がどれだけしんどいかということがあるからこそ親子で来てもらう。保健センター等で検査を受けて「あれ、お宅のお子さん(発達が)遅いですね」とか、今まで疑いもなく育ててきてびっくりしているお母さんに「施設の存在を聞いて来たんですけど」と来てもらって、スタッフにも障害児をもったお母ちゃんとかいるので、「大丈夫よ、みんなでやっていこう」ということです。
タカハシ:
そもそも僕は最初バイトで入って常勤になっていくのですが、現在3年目です。最初のさんさんくらぶの印象から、どんどん中の人になっていくと、面白さを感じるポイントが無意識のうちに変わっていって、今回の芸術家中心のプロジェクトメンバーそれぞれに追体験というのか、全く僕と同じようにはならないでしょうが、真っさらな目で見てもらったらどういう風に感じるんだろうというのが僕の最初の発想のスタートでした。他にもいくつか理由はありつつ、さんさんくらぶひとつをターゲットに決めたのも、「集落」という呼び方を決めて。集落といってもいろんな集落があると思うのですが、ひとつの場所でどれだけできるかというのを考えてみたいなあと思ったのが、経緯でした。
池上:
『「芸術と福祉」をレクリエーションから編み直す』の今年度のテーマとして、タカハシさんから「さんさんくらぶをひとつの集落と見立てて、そこで用いられているコミュニケーション/方言を外から訪れた人が習ってみよう」ということが掲げられたんですね。その上で特に捩子さんが、さんさんくらぶに訪ねて行ったのですが、今日の副題としては「集落の中の人」駒崎さんやタカハシさんは今年度方言を習ってみるということについてどう感じたのでしょう? 今年度どんなことをやってきたのかをタカハシさんから。
タカハシ:
今年度は、まずはなにも考えずに「方言を習ってみてください」と伝え、それぞれのペースで来たい時に来てもらうというスタイルをとりました。だから、今は捩子さんがダンスのワークショップをやってみたりということが生まれてきたのですが、そういうことが起こるかどうかもわからず、何が起こるのかというところから始めて。プロジェクトでひとつの答えをつくるというよりは、それぞれ個人がどこにポイントを置くのかというのを決めてもらうようにしました。
池上:
じゃあ捩子さんがどのように入っていったのかというのを。
捩子:
そうですね。集落、方言というタカハシさんなりの設定があって、夏くらいから月1回から2回くらい、集落に通ってきて、そこで交わされている「ことば」を方言と見立てて自分で習って欲しいと。そういう設定で7月くらいから通いました。本当にただ通っていたんですよ。その上で、どういう欲求がタカハシさんにあるのかなと考えたりもしました。たとえば、1人のさんさんくらぶで働く職員として、外からの刺激が欲しいということでやっているのかもしれない。あとは、さんさんくらぶで起こっていることは、中では当たり前かもしれないけれども外からみたら結構すごいことなのかもしれない。それをダンサーだったり僧侶だったりの目線から言語化してもらいたい。その言語を通して自分たちが気づくこともあるかもしれない。それでもうひとつのタカハシさんの手握としては、おそらく自分の興味がある人を自分の職場に呼び込んだら勝手に面白いことが起こるだろう。ただ本当に何も起こらず。タカハシさんの手握は裏切られ、我々は通って、そこで起こったことを自分なりの解釈で思ったことを書き起こしてタカハシさんに報告するという手法を取っていました。
今思えば意地になっていたところもあって、自分の方からワークショップなりをやってみましょうかというようなことは絶対に言わない、となぜか決めていました。だから、見る。そして、報告する。それに徹しようと決めていました。最初行った時は、あまり大勢の子どもと接する機会もないので、子どもの勢いに合わせるように、笑ったり、何か話しかけてみて自分の知らないアニメの話を聞いていたりとか、子どもたちの調子に合わせるようにしていた。でも2回3回と重ねてさんさんくらぶへ行くうちに、徐々に自分にとっては無理をしているような感じになって、もうちょっと普通にこの現場で起こることを見ていたいなという変化が訪れて、ある時は笑ったり喋ったりせず黙って石のようにそこにいるということをタカハシさんに提案したりもしました。そんなこんなで冬くらいに、タカハシさんから何かワークショップやってくれというのをSkype会議で言ってきて、じゃあ何かやろうか、と。というわけで、今年に入ってからワークショップを始めました。だから何かしたというのは2回しかないのですが、通う中で子どもたちと自分が顔見知りになっていくことで個々の子どもたちに起こる変化をストックしていました。それは今日話せるのかなと。
池上:
最初に「このプロジェクトが面白いな」と思ったのは、福祉施設で芸術家が何かやるケースは多くあるのですが、最初から発表する場が決まっていたり、アーティストが入っていって子どもたちと一緒に何かつくるということが決まっていたりとか。その入り方/矢印/力の方向性が決まっている場合が多い。その中でこのプロジェクトは「編み直し」てみる、考えてみるということだったり、方言を習ってみると言っていて。ワークショップをやることが決まっていたわけでもなく、どうにでもなる珍しい形で始まっていたんだなと。同じく芸術の方面の人たちが福祉の中に入っていくけれども、「芸術家をいま受け入れます」という時間ではなく、福祉の現場の人たちにとっても遊びの時間/レクリエーションであって欲しい。そういう関係の取り方、お互いその場所にどう居られるのかを考えてきたと思う。
タカハシ:
僕が障害福祉の世界に入ったのはアサダさんがきっかけだったのですが、最初からいわゆる直接支援ではなく、滋賀に住んでいる主に知的障害の方が出演する音楽祭をつくる、という裏方の仕事で、僕は音楽の仕事を探していたらそこに至ったという経験があって。何を「ザ・福祉」とするのかはわからないのですが、福祉そのものでは全然なくて、アートと何かするというところから繋がって来ています。そういう事例は良いものを含め増えているし、いざこういうテーマで自分が何かをしたいという時に、そもそも僕が何かをつくる時も、つくらないことも選択肢に入れながら進めるのが割と好きで、今回もそうなりました。生まれる生まれないも含めて、そのプロセスを一番近くで見ていたいというのがあります。最初捩子さんがさんさんくらぶ来た時にも、子どもたちに身体的にも精神的にもゼロ距離で接近されて遊びにぐいぐい巻き込まれて「あ、捩子さんが弄ばれている」と思いながら、これからどうなっていくのだろうなと感じていました。
池上:
捩子さんがワークショップをやろうと思ったのは?
捩子:
これはもうしんどいなと自分で感じていたのだと思う。確かに日々通ってそこで起きたことを言語化することにも意味はあるけれども、これはさすがに1年もたないな、と。でも、俺の方からは何も言わないんだ、と。だけれどもそれはそれでしんどいなと思っていたから「なんかやってくれ」と言われた時は気楽でしたよね。じゃあやってみよう、結構通ったし、何か思いつくこともあるかな、と。まあやるか、と。タカハシさんと合意が取れたというのか。その意味では秋田さんも通いながらそのしんどさを共有していた部分があったと思います。
タカハシ:
同じ時期ぐらいにみんなしんどいって言っていましたね。
秋田:
私も同じで。まずは言語化して欲しい、方言を習ってきてくれという依頼だけがあって。私も全部で4回ほどはさんさんくらぶに行かせてもらって、最初のうちは考えたことをその都度言語化するということをやっていましたが、12月くらいに限界が来て。そこからの展開がどうしたらいいのかというのがわからなくなって。全体ミーティングもその時にあったのですが。今年入ってから一度も行けていなくて、捩子さんのワークショップも見られていないのですが。
タカハシ:
それぞれが書いたレポートは、いわゆる既読がつかない形でそれぞれのメンバーで見られるようになっていて(Googleドキュメントというウェブサービスを使用)。答えをひとつに絞りたくないというのがあったから、本当にバラバラに考えてもらう仕組みになっていて。だから、チームだけど孤独でいる仕組みのせいで、みんな発狂しそうなったのかなと思ったのですが。何かするにはワークショップが一番気楽な選択だったと思うのですが、このメンバーの中でワークショップを単独でできるのは捩子さんしかいないので、捩子さんいてよかったなあという感じでした。
池上:
捩子さんはどういうワークショップをやったんですか?
捩子:
事前にこうやろうといった打ち合わせはなかったです。自分なりに想定して来たもので、1回目はまず自分がソロダンスを踊って子どもたちに見せてみる。そのソロダンスでやっていたことをみんなでやってみよう、あれやってこれやってと楽しく時間が過ぎるだろうと思ったら、初回からまったく裏切られて。さんさんくらぶでは普段食事をつくったりみんなで遊んだりする隣にもうひとつ広めの部屋があって、そっちで身体を動かす想定で。ワークショップは、おやつの時間が終わる15時45分から始めようと思っていたら、15時45分の段階でその部屋には1人もいないんですよ。15時45分くらいから皆はおやつを食べ始めていて。その時点でこのプランはうまくいかないと思って。それ以前に「僕が何かやります、見て」という状況をつくれるかどうかも怪しい。
では、この流れでワークショップはどういう内容だったかをお話ししますと、1人の子どもがいてその子も「この部屋、嫌やねん」と帰ろうとする。そうすると大人しかいなくなる。その子は鉄道模型のプラレールで遊ぶのが好きなんですよね。じゃあ「プラレール、隣の部屋から持ってきてあげるよ」と。子どもがその部屋に来たら絶対に帰さない。そのうちにおやつの時間が終わって隣から子どもたちが流れてくるようになって、なんとしても自分で興味を引いてこの部屋から帰さない意気込みで。「じゃあみんなで揺れてみようか」と言ったら「いやー」とか言われるし。年頃の女の子だし触られるのも嫌だし、だから「いやー」って言われたら僕も「いやー」って言いながらそっちに寄っていって。その場で起こることはフリークライミングの岩のかけらに指をかけるような時間がどんどん過ぎていく。そしたら「足裏を合わせてみようか」とか。これがなくなったらこれ、これがなくなったらこれと、ダンスというよりはその場で参加していることを起こす、起こし続ける。そういうことで1時間は過ぎていった。疲労困憊しましたが、とても衝撃でしたし面白かったです。
2回目のワークショップでは、1回目で自分が意識的になんとか興味を引こうとしていたことに対する無理を感じていて。本当はそういうことを自分ではしたくなくて、その場に起こることが何かになればいいと。だから「やります」みたいなことはしない。子どもたちがあっちにいってしまうのならそのままにしておけばいいと。割と何もしないということをやって、そしてスベったという。1時間経つ頃には1人いなくなり1人いなくなり、職員の方もいなくなりで、最後には僕とタカハシさんと持木くんだけになっていたという。
タカハシ:
1回目のワークショップの時、僕にとっても思いがけないことが起こって。踊りが好きだということは事前に知っていたが、実際に踊っているところは見たことがない子どもがいて。捩子さんがその子的な動きで近くでしつこくしつこく踊って、仕掛けにいって。そうするとその子のスイッチが入ったみたいで捩子さんの真似をし出した。その瞬間僕は唸りましたし、それを見ていた他の職員さんも泣き出すという。そんな瞬間がまさか見れるなんてと。それを毎回引き起こせるかどうかはわかりませんが、1回目にそれが見られたことはびっくりしました。
池上:
1回目の「それが見られて感動した」ってそれはみんなで共有できたのかな? アサダさんは想像できましたか?
アサダ:
いや、いまの一連の話を聞いていて、割とこれをやりますと設定されてワークショップしに行くことが多い中で、行くことは決まっていてそこで時を過ごして12月にたまたまワークショップしますというのは面白いなあと思って聞いていました。要は相手の現場、そこにはそこの時間がある。さっき言っていた15時45分に来るはずだったのに来ないとか。僕も同じような経験があって、広い意味では繋がるなあと思って。北海道の小学校にワークショップをしに行くと、授業の枠を一切使わないという結構変わったことをやっていて。休憩時間と放課後と昼休みだけで、誰が来るのか全くわからない。毎回メンバーが変わるし、約束しても来ない。そうした変化の中で、要は「このことやったから次の時間これをやろう」が成立しないんですよ。でも、それってこっちの都合で。あくまでそっちに流れている時間がある中で、こっちが持とうとしている意志/時間と擦り合わせていく中で必ずスリップするところがある。そこは結構面白いことが起こる感覚があって。捩子さんの話を聞いていてそこは同じ現場でなくても共有できているような。そのほうがある種フェアで、フェアな状況から立ち上がっていく表現というのがあるのかなと。
そういうことを思いながらさっきタカハシ君が言っていたダンス好きだけれども、踊っているところは見たことがなくて、捩子さんの影響を受けながらその子どもの、そういった風景のことをそこ(上述の自分が体験した)から考えたという感じですね。
駒崎:
15時45分に子どもが遅れて隣へ行った話。私、その日いるはずだったのに体調悪くて帰って。申し訳なかったなあと思って。私が現場にいたら、なんとしてでもその15時45分に子どもたちを隣へ連れて行かすように配分したのに、と。出来ていなかったんだなと。
タカハシ:
でも、それがよかったんですよね。
駒崎:
捩子さんが「フリークライミングの感覚で登っている」という話を聞いて、一緒だなあと。私たちも、障害をもった子どもと関わってどう反応するかわからないのですよ。毎日専門家としてフリークライミングだし、私はその上で色々教材やらを準備しておくし、捩子さんはきっとダンスや表現をその場に出して行って、似ているなあと。全く同じです。スリリングな感覚でやってくださったことに対して。
秋田:
捩子さんに訊いてみたいのが、最初にタカハシさんから「方言を習いに行ってください」と言われたと思うのですが、捩子さんの中で「方言ってこんなことかな」というイメージとか、また方言を習うことによって捩子さんの中で変化や、何か発見がありましたら。
捩子:
月1回程度しか行ってないですが、自分のポジションが段々定まってくるという感覚があります。座る椅子の場所が決まってくるというのか。見学に行った時にここに定めるといい感じの距離を保てるとか。方言、と言われると、単純に一人一人の子どもがこういうことに興味があるんだなとか、こういう風に自分に話しかけてくるのかとか。この時間でこういうメンバーだとこういう遊びが始まるなとか。普段我々が方言という言葉で言い表されていることと擦り合わせていくように、そこで起こっていることはさんさんくらぶなりの方言と言えると思います。
あとは、自身で課していたことがひとつあって。割と「この人はこういうことしてもいいんやな」という感じで暴力を振るわれるんですよ。でも、そういう時に「やめろ~」とか言うのをやめようと決めていて。ダンスっていわゆる音楽に合わせて踊るというのがありますけれども、やっちゃいけないことをやるとか、こういう枠組みで決まっていることの外側に出てもいいとか。あとは、お酒呑んで酔っ払って歌を唄うとかいうことと似ていると思うんですが、割と枠組みを溶かしたり穴を開けるということがあるので、自分が行った時くらいは職員にできないことを俺の身体にしてもいいみたいなことを担保しつつ、それと同じことをダンスのワークショップでやりたいなあと。
秋田:
私も簡単にレジメをつくってきたのですが、冒頭に私の感じた方言というのを書いています。私が何回かさんさんくらぶに行って子どもたちと接して方言を習うことを通して感じたのが、皆、正直に動いているなあと。私たちは初対面の方に会ってもその人がどういうことに関心を持っているか、何が好きかとかすぐにわからないものですが、長年付き合って「そんなのも好きなんだ」とわかっていく部分もあると思いますが、「これに興味あって、これが好きだ」と子どもたちは割とはっきり表現している。そう動いている彼ら彼女たちを見ていて新鮮さがあったんですよね、こんなに正直に動いていいんだ、という。自分の中ではそれが方言なのかなと思っていて。私が普段暮らしている社会では見かけない人との正直な関わり方をしているなと。
とはいえ、さんさんくらぶという場所もそうだし、職員の方が子どもたちに接するにあたって、単に自由に正直にいたらいいよというのではなくて、やはり社会に出てどうするか、社会人としての振る舞いを共通語とすると、方言だけ話していればいいのではなくて、両方を併用できるようにしないといけない。集落ってそういう場所なのかなと。集落では確かに方言が話されているけれども、共通語の存在もすごく意識されていて、それぞれ併用してやっていこうねという形があるかと。それは、もしかしたら全ての人がそうあるべきかもしれなくて、私たちはどちらかというと社会の枠組みに寄って行って、共通語で生活していこうとすると自分の正直さを時々忘れ、社会のルールや社会でこうあるべきだという方が強くなって、自分の正直な言葉/方言が取り戻せなくなるのではないかと感じました。なので、方言を習うというのは、自分の正直な言葉を社会の中で使うということかなと。それをさんさんくらぶの子どもたちから学んだし、それを私自身の人生の中でも実践しようとして、それによって状況の良い変化がありました。そういう意味ではありがたい出会いだったなあと感謝をしています。
タカハシ:
池上さんの話したらどう? 原体験みたいな。
池上:
さんさんくらぶの話ではないのですが、私が東京で友人とアート・プロジェクトの事務局にいた時に、そこに出入りしていた障害をもった男の人がたまたま遊びに来たんですね。私は彼と初対面だったんですけれど、彼が「あなた、何年生まれ!」って訊いてくるんですよね。「いや、91年です」と応えると、「レッシー知ってる? ドレミファ・ランドは?」という話をふってきて。それは私が幼稚園の時にやっていた『おかあさんといっしょ』のアニメなんですけれども。それをバッと言われた時に、「確かに幼稚園の時のドレミファ・ランド見てたわ、レッシーいたわ」という情景が蘇って。その記憶ってもう10何年思い出したこともない世界だったのですが、その人とのコミュニケーションでその記憶が蘇ってきて。隣の年配の友人の女性の方にも「あなた、何年生まれ!」と聞いて、年齢に合わせて違うキャラクターの名前を返してきて、「あ、あったわ。そういうテレビ」というコミュニケーションが彼と私たちの間ではあったんですけれども。
彼は、そういうコミュニケーションの取り方をする人だったんですよね。それもひとつの方言だったと思うんですけれども。そんなやり取りの中で、私が用事があってもう出ないとならない時に、彼が「レッシーとポロリは同じ声優さんだったと思うんだけれど」と言ってwikipediaで調べ始めて。でも、私は次の用事に行かなければならなくて「ごめん、友達と会う約束があって、ちょっと時間なくて」と言って別れようとしたのですが、その言葉では私に用事があって行かなければならないことが、彼には通じない。でも、私はその時「ごめんね」という風にして別れたんですけど。
後々思ったのは、あの時彼は私にすごい体験をさせてくれて、それが彼とのコミュニケーションだったと分かって。その上で「ごめんね」ではなく、彼とどういう別れ方が出来たんだろうと。彼の方言を私が使おうとしたらどういう「言語」を使えば良かったのだろう。そういう言語やコミュニケーションの開発は、日常のスピード感覚の中ではとても出来ない。いわゆる共通語の中では開発しづらくて、だから、レクリエーションという枠で敢えて創出する時間の中でなら考えられるかなと思っていたんです。でも、このプロジェクトもなかなか進まなかったのですが、その中で捩子さんがワークショップをやり始めて。
1回目のワークショップの後、タカハシさんがすごく興奮していて。さっき話していた女の子が捩子さんが動きを仕掛けて、彼女がそれを真似て応えて、というふうに連続したコミュニケーションが生まれていった。そして施設スタッフの方も「この子、こういう風にコミュニケーションを取るんだ」という発見があったという話を聞いて、これがひとつの方言を見つける/習うということだなと。捩子さんのダンスでそれが試みられたのだなと私は思ったんですけれども。
捩子:
今思い返すとレクリエーションぽかったですよね。ダンスというと伝わりがわからないけれども、レクリエーションという言葉から想像する「みんなで和気藹々と同じ作業に従事している」というワークショップだった。たとえば「タカハシさんを転がしてみよう」とか「じゃあジャンプしてみよう」とか。ジャンプしていない子がいれば「その子の側に行って寝転がってみよう」とか。「芸術と福祉を編み直す」という大きなものに関わっていたかというのはひとまず置いておいて、普段もうひとつのさんさんくらぶの現場でやっているお絵描きだとか、トランプだとか、彼ら彼女たちなりの欲求が、僕が起こしたワークショップによって形を変えた。だから「レクリエーションを編み直す」ということはやっていたなあと。ダンス・ワークショップというと分かりにくさが増すけれども、レクリエーションの編成という意味ではそれは確かにそれは起こっていたなと。
タカハシ:
タイトルは直感で考えたのですが、タイトルに救われたところは大きいです。その中で発見したことがあって、レクリエーションって居合わせるというのか、観客不在だなと。閉鎖的になるのではなくて、そこから世の中の流行などといった標準語から距離が図られるのかなと。秋田さんが方言を捉えて人生において早速良いことがあったとのことですが、そういえばそうしたことも試してほしいと秋田さんと捩子さんにはオーダーしていました。習いきったと個々が思った後で、他の集落でもそれを試してみてくださいと。たとえばどんなことですか? 言える範囲で。
秋田:
たとえば自分が働いている寺でもグループがあって、社会的なしがらみもあったりします。そういうところに自分が絡め取られたりもする。本来自分がやりたかったことも蔑ろにして、そうした社会的な関係性をメンテナンスする方を優先して本末転倒になりがちだなと。今までは見てみないふりをしていた部分もあったのですが、そこの自分の本当にやりたかったこと、自分の正直な腹から出る気持ちに着目してみたらどうなるのかなと。それは子どもたちの姿をみながら集落で学んだことです。実際に意識して日々を過ごしていくと、さっき言ったような関係性を優先しちゃうということを越えて、相手もわかってくれることもあって「ああ、言えばよかったんだ」と。 そうした正直さは社会の関係性をないがしろにするものではなく、「共通語から距離を置きたかった」というタカハシさんの気持ちもわかるのですが、もし本当に共通語から距離を置いてしまったら閉じてしまう。そうではなく、方言をちゃんとしゃべれるようになることは大事ですが、社会と関わらないといけなくて、それには共通語も持ってないといけない。
タカハシ:
いきなり、公共性とか、芸術と福祉の取り組みでこれが良い事例だ、とかではなく、集落の中から充足させていきながら、街に出て行くなり展開していくということを今現在だからこそやりたくて。(集落が)最初から開ききっているのではなく、方言からさんさんくらぶならではの有り様/どんな可能性があるのかを考えるという取り組みであったし、考えてよかったなと。持木さんは、捩子さん以上にフラッとさんさんくらぶへ来ていましたが。
持木:
一貫して楽しかったんです。なぜ楽しかったのかを考えていたのですが、子どもたちの反応が分かりやすい。普通の人と話していても本当に楽しいのか、感情の起伏がよくわからない。子どもたちと接している時はダイレクトにつまらないとか楽しいというのがわかるというところで、フラッと遊びに行ってしまいました。
タカハシ:
さんさんくらぶで働きたいと言ってましたね? どうですか、原さん?
持木:
はい。
原:
経営も考えないといけないんですが、一緒に考えてもらえるなら。
池上:
プロジェクトメンバーから原さんや駒崎さんに訊きたいこと等あれば。
捩子:
(その前に)アサダさんに訊きたいのですが、僕、こういうワークショップの現場経験はそんなになくて、1回目のワークショップで本当に難しいと思ったんですよ。不勉強で彼ら彼女たちの障害というものがどういうものなのかよくわかっていないのですが、子どもなのかそうでないのかの区別もわからないくらい、僕が投げたものに食いついたと思ったら散って、食いついたと思ったら散って。その共同作業を維持するというのが難しかったです。自分がこうしようと思っていたことが、ものの見事に崩される。それを体験しながら他の人だったらこういう現場でどうするのかなと思いながらやっていたんですね。音楽だったら割と空間をつくりやすい。みんな別のことをやっていても同じ現場に居るという状況がつくれる。身体ひとつでやるのはすごく大変だ。でも、出来ないわけではないなというのは収穫でした。アサダさんは子どもたちとのワークショップというとどういう現場があるんでしょうか?
アサダ:
僕も「音楽」といいながら一体感をつくり上げるようなことをやっていなくて。それこそ空間をつくり出すという意味では、演奏をしてしまえば結構バッて立ち上がりやすいのですが、僕はあんまり演奏しない。どちらかというと演奏は奥の手で、むしろ音を録ったり音を聞いたりとかして、みんなで編集していく。
先ほどお話しした北海道の小学校の現場ですが、去夏に1週間知床のウトロという地域に滞在して、校歌を元にオリジナル・カラオケ映像をつくるというワークショップをやってきました。現場は混沌とするのですが、いくつかチャンネルを用意しておく。それは経験上今までやってきて、音楽ひとつとっても演奏したい子もいればそうじゃない子もいるし、つまり周辺に関わりたいという子がいる。たとえばコンサートをするにしても音響したい、司会したい、チラシつくりたい、とか。結構バラバラなんだなということが分かってきた時に、校歌をつくるワークショップもテロップをつくるチームと、レコーディングのチームと映像を撮りにいくチームと、と何パターンかあって気になったところを選んでいく。今回さんさんくらぶに関しては捩子さんお一人で乗り込んで行ったからすごいなと思うのですが、1人で現場が回らないので、僕だけではなく3人ほどのチームで行くんですよね。皆いろんな意味の表現を持ち込んでくるので面白い。たとえば、そのワークショップのチームでカメラマンとして入った男性がいて、でもその人はファシリテーションもする。それは押しが強いわけではなくて、撮りながら一緒に「こっち」と動いてくれる。それぞれに役割が決まっていても、広い意味で表現者としてチームで行った時に子どものいろんな変化、モチベーションをその場その場でどうキャッチ出来るだろうか。チームだったら1人子どもが退屈そうにしていても、違うアプローチがあればまた違う方向があるかもしれない。一体的にみんなで同じ方向を向くのではなくて、バラバラの方向であってもなんとなく場が全体としてちょっとずつ何かが出来上がっていくために何人かのチームを組んでいる。今回のこのプロジェクトメンバーもそれぞれが違う立場で関わっていて、捩子さんが表現の軸を担いながらも様々に絡み合う状況はよかったのではないのかと想像しているのですが、逆に今回チームワークということはあったんですか?
捩子:
1回目の時はなんとか1人で現場を回さなきゃというのがあるから、タカハシさんも持木君も使えるものは何でも使う。そういう役割として存在していたんだけれども。2回目の、「スベった」時間を過ごしていく時に「なんにも起こらないんだな」と退屈した子どもたちが持木君と遊んでいたり、1人の職員さんが1人の子に付きっきりで、普段のさんさんくらぶの現場では見られないような職員さんの姿が見られたり。たとえば、事前にワークショップの打ち合わせをした場合には、アサダさんが言ったような役割で回せるんだろうなと話を聞きながら思いました。
僕よりも職員さんたちの方が一人一人の子どもをよく見ているので、こういうのがいいんじゃないかとアイディアを出して内容を組み立てるということをプロジェクトが来年度も続くようであればやったらいいんじゃないかと。
アサダ:
捩子さんの話を聞いていて思い出したのですが、北村成美さんというダンサーがタカハシ君がさっき言った滋賀県でワークショップをやっていました。時間を掛けての話ですが、彼女を面白いなと思ったのが、今言ったチームワークというのは「やってくる側/表現を学びにいく側」のチームワーク。そこにたとえば駒崎さんや原さんといった完全に「中の人/スタッフの側」が加わって、その音楽祭ではレクリエーションではなく、ダンス・ワークショップとしてやっている。
最初、スタッフの人はあくまで利用者さんの生活を支援する立場にあるから、そのラインは絶対に崩さない。たとえば、ワークショップの最中にトイレ介助しに行くとか、安全を確保するとか。だから、ダンスのワークショップの時もスタッフの人は横で立っているだけという状態がしばらく続いて。でも、北村さんが「みんな踊るんだ、その役割はここでは関係ない」と徐々に支援をする側の人たちも一緒に舞台をつくり出す。「いま本番だから観客はここにいらない」という環境をつくり出す中で、たとえばトイレとか必要な介助があった時は、それをダンスにする。サッと美しく車椅子で去っていくとか。そういう時のチームワークをどこの範囲で考えるかということもあって。日常の支援においてはずっとそうはできないけれども。ワークショップが行われている時間、安全は確保しながらも一旦崩して皆でこれを共有してやるということはどんなふうに出来るのだろうと興味があります。
タカハシ:
2回目のワークショップはスベった、と捩子さん言っていますが、捩子さんだけがスベったわけではなく。要は、持って行き方を含め、長い時間を掛けて考えていきたい。(このプロジェクトを)続けることに意義があると思っているのですが。ワークショップひとつ取っても、何を失敗とするかがあると思っていて。もちろん無意味な失敗はしないほうが良いだろうとは思うのですが、ワークショップが終わってから駒崎さん含めて話していて。職員である私と、表現者である私とをそうキッチリとは切り分けられないのですが、職員の人も集落の一員と頭では思っていても、実際の行動はそう出来ていなかったなと思って。僕自身が(職員の代表としても)独自の発想をするんだというのがどこかにあったのかもしれない。だから、職員を置き去りにしたのはぼくだったなと。これからは、巻き込むのとも違って徐々に一緒につくっていくのが良いのかなと。たとえば、本来捩子さんがやらないことを駒崎さんにオーダーされたとして、それがたとえすごく恥ずかしいということがあったとしても、集落の中だけだから大丈夫、とか。そうして集落として求められている儀式に対応していく時、それもある種レクリエーションかなと思って。普段(僕や捩子さんが)絶対にやらないことにトライするということに発見もあるよな、と。方言を習うことでそれぞれの芸の肥やしにして欲しいな、と。そういう意味で駒崎さんの無茶振りに応えていく会を以後設定できたらいいなと。
駒崎:
村の通過儀礼みたいな。
アサダ:
レクリエーションとイニシエーションとか(笑)
タカハシ:
じゃあ、それを副題でいきましょう。という感じは、2回ワークショップやって思いましたし。僕初めてコンテンポラリー・ダンスを見たのは上述(音楽祭)の滋賀、別の施設でダンサーの野田まどかさんがワークショップをやっていて。静と動というのか、北村さんと野田さんを比べると野田さんはすごく静かなんですね。(イメージとして)ほぼ動かないですよね。高齢のおそらく知的障害のおばあちゃんが1時間半で30センチくらい平行移動していたかな、というくらい。でも、その人もその場にいるということは参加しているということだよなと認識した時に泣けてきた経験があるのですが。もちろん、人それぞれに見るポイントや時間はあるけれども、その(動かない人もいるという)状況だけ取り上げて僕はダンスと呼んでもいいかもしれないと思った時に、いろんな幅がワークショップ(ひいては表現)としてもあるなと思いますね。個人的には捩子さんが他の現場や仕事で見せない顔を見てみたいなと。人と関わって物事を動かしている時に、ポロリしちゃってほしいなと期待していました。
捩子:
いや、結構ポロリしていますよ。ワークショップで「さあ始めますか」という時に、そのスペースに子どもゼロって時の俺は、他ではなかなか見せない顔を見せていますよ(笑)それだけに限らず、さんさんくらぶでは他では見せない顔をしていると思います。そうせざるを得ないというか。
アサダ:
ポロリの話は秋田さんが配ったレジメにも関係すると思って。タカハシ君は、さんさんくらぶにおいて中の人としての顔を持っている。これはアーティストを含めて支援者であったりスタッフであったりと、ある役割を担う時に、ある役割から外れる顔は見せたくない。その揺らぎに立つ時、様々なポロリが起きそうになるわけじゃないですか。その状態というのは福祉や教育のある時間の中で、自分はその専門性を持っているけれども「実は私個人としては」というニュアンスの話はいろんなところでされると思うんです。それは秋田さんのメモに書いてある「ケア」というものがどれほど人の中の「全部」と関わることなのか。ある時間で私はケア従事者でやっているというよりは、先程お話しされた(原さんが法人を)立ち上げた経緯などを伺うと、本当に全人生を投げ打って立ち上げている時に流れている時間というのと、今の(職員)それぞれがさんさんくらぶに入って行った時に「それぞれが自分の役割だけではいられないんだ、ここは」と思うのは結構面白いなと。とはいえ現実、支援をしていかなければならない。そこの狭間で引き剥がされるということがある。そこにいるタカハシ君をどう思っているのかというのを知りたい。
駒崎:
(さんさんくらぶに働きに)来はじめた時はフラっと来て。スタッフは、おばちゃんばっかりですからね。タカハシ君はいわば「おばちゃん村」に来たんですよ。大阪のおばちゃんがミーティングと称してワー言っていることに「僕、居たたまれません」とかごちゃごちゃ言っていたのだけれども。子どもとの関わりにおいては全身全霊でやっているような時もあれば、弱ってヘタレている時もあればという感じですが。私たちいつも思っているのは、福祉は言葉だけの意味でいえば「人がよりよく生きていくための」というすごく良いことしかないのですが、私たち現場側が戦っているのは制度です。そこがいつもしんどいしんどいと言っているところではないかなと。しんどいけど折り合いつけながらその中で出来ることを探して、ある意味どこかでねじくりまわして活用しながら、なんとかやりくり出来ないかとやっている。私たちの集落の方言と一言で言われても、本来の方言と、制度に則った時に出てくる方言、両方あるな、と今日思います。
原:
多様な人と繋がって元気になりたいし、子どもたちが幸せになってほしいという願いの下やっているんですけれども、どうしたらそうなるのかというのを制度を使いながらですね。ただのボランティアで楽しい場をつくるだけではなく、働く場でもあり、将来的に子どもが良い方に行くために何をしたらいいのかを模索しているわけで。いろんな人に関わってもらってその場を耕し、良い場にしてやっていきたいと思っているのですが、経営もあるので。人件費や運営費に圧迫されながら、日々悩ましいんです。理想だけでやっていればいいわけでもなくて。でも、やっている意味はそこにいる人たちを幸せにする。働いている人たちにも幸せになってもらいたい。なのに、葛藤が常にある。
駒崎:
障害者でも子どもと大人で違うよね。私たちでも社会といっても実際に関わる人数なんてたかが知れているでしょう? でも、学校にいる子どもたちって先生や親に求められるのは、なんかわからんけど将来の世の中で大丈夫なように「療育」とか「教育」とか。道引かれたり、枠にはめられたりという存在で、大人より窮屈なんですよ。子どもという生き物本来は自由だけれどもね。子どものためにということと、学校や保護者と連携したりというニーズに応えたりと、すごくしんどい。
原:
今、療育の世界で「ソーシャル・スキル・トレーニング」というのが流行っていて、トレーニングで行動を良くしていこうというのがあるのですが、でも、私も障害のことに長く関わってきたわけではなく、駒崎さんを頼りにやっているんですけれども、それに対する疑問もあります。「レクリエーション」を用いて子どもの気持ちや行動が楽しくなったり、人と関わることは自然でいいなと思っていて。トレーニングというよりそっちのほうが魅力を感じるなと今は思っています。
タカハシ:
持続していくためには、職員は影武者ではないと思うんです。利用者が第一だといいつつも、その施設のカラーを決めているのは職員が占めるウエイトが大きい。その人たちがケアされる状態がつくれたらいいなと。僕が初めてさんさんくらぶに見学に来た時、ここが面白いなと思ったのは、職員のほうがうるさいんですよね。こんな施設見たことないと思って。「福祉とアート」という現場から離れた後、(福祉でなくとも)生活の機微が近くで見つめられるような場がいいなと思っていた時に、さんさんくらぶに出会った。その現場はカオスで、捩子さんの2回目のワークショップもカオスだったと思うんですけれども。自分より自由な人たちだなと職員の人に対して思うんですよね。僕が同じおばちゃんくらいの年齢になっても、これくらい自由に振る舞うということはあってもいいんだなと思えました。その中で働いていると職員として相対的に僕は保守的になってしまったんですよね。それが、自身なりにびっくりしました。

***質疑応答***

聴衆1:
メンバーの皆さんお1人ずつに聞きたいのですが、このプロジェクトが今後続くのであれば、この1年間にされてきて起こった出来事のどんなところに意外性、自分が思っていたこととか、自身が予測していなかったことなりがあって、どういった形でこのプロジェクトに個人として興味を抱いてやっていこうと思っているのか、お伺いしたいと思います。
秋田:
タカハシさんは、昔にいうところのお寺をつくりたいんだろうなと思うんです。昔のお寺って芸術も福祉もどっちもやっていた。レジメに書いたように、やはり仏教とか芸術、福祉は私たちの思っている枠を外していく。結局「ケアとアート」と言い換えた時にほとんど同じことをやっているのではないか? ケアやアートも一部の専門家がやっていることではなく、ほとんどの人がやっているのではないですか? と。なぜ、昔のお寺がそういう芸術も福祉も両方できたのかというと、外の世界にあったからだと思うんですね。世俗から切り離されて何をやってもいいという場になった時に、他者を正面から見ていく視線とかが培われてきたのかなと思うのですが。なかなかいまの現代社会だとそれは難しくて。應典院もそれに近いところを目指してやっているのですが、やはり制度の中でやっていかないとならず葛藤しながらやっていくものだと思うんですね。私たちはいまお寺でそれをやろうとしているのですが、タカハシさんはそういう昔で言うところのお寺を全然異なるやり方/社会の外側として再建されようとしているんだろうなと思っています。そこに関心を寄せながら今後も関わっていけたらいいなと思っています。
タカハシ:
実はこのプロジェクトの延長で、僕は自分で施設をつくりたいなと思っているのですが、昔でいうところの寺というのはなんとなくそうかもしれないな、と。
池上:
今後についてはわからないのですが、今年度について。2回目のワークショップの後、タカハシさんが「あんまりうまくいかなかった」と言っていて。「失敗だったかもしれん」と。これについて失敗とか成功とかあるんだろうか? レクリエーションというものに対して失敗はあるのだろうか? と思ったんですよ。たとえば、さんさんくらぶで毎日つくっている料理とか、私が同行させてもらったキャンプも施設の中のレクリエーションだったな、と。素麺がうまく流れなかったりして。それは、素麺を流すということ自体は失敗だったかもしれないけれども、キャンプに失敗も成功もない。だから、そういうキャンプや料理と同じように、施設の中でもレクリエーションだし、外でもレクリエーションというのがどういう風に今後もそういう温度で続けられるのかしら、と思っていて。捩子さんの2回目のワークショップがスベったというのは、それが料理とした時にはすごく美味しい時もあるし、美味しくなかった時も、それでもつくったということだし。
タカハシ:
始めた頃が割と肝心なんだろうなと思っていて、狙いがあっての失敗であれば。
池上:
狙ってやっていくものなんだろうかというのもありますよね。
タカハシ:
どう考えているのかを最低限提示できたらいいのかなとは思いますけれどね。
持木:
このプロジェクトは、タカハシさんのまだ言語化できていない違和感を解消するためのプロジェクトなのかな、と。このプロジェクトはすごく長いスパンで続いていってほしいなと思っていて。続かないと問題として見えて来ないのではないかなと。今年度の最後に捩子さんのワークショップが出来て、そこで僕はいつものさんさんくらぶで起こっていることが可視化されたと思っていて。ワークショップの時にちゃんと見えやすい形でグルーヴが起こったと思うんですよね。来年度もレクリエーションとして場が起こればいいなと思いました。
捩子:
隣の部屋で子どもたちがお絵描きをしたりトランプをしている、それが形を変えてワークショップになったと思っています。自分自身が作品をつくり培ってきた何らかの経験が、さんさんくらぶでは形を変えるわけです。別に障害というものを通さなくてもいいんだけれども、外と出会って形を変える。それ自体が喜びです。自分の関心の中心にある頼り甲斐というのでしょうか。それを面白がれる限りは続けられるかなと。
アサダ:
このプロジェクトのテーマ、「レクリエーション」という言葉をタカハシ君が使い出した時は「ああ、なるほどな」と思ったんですが、「芸術と福祉」については自分なりになんで関心を持ち、関わって来ているんだろうなという話になるのですが。
その現場にいないといけないとされている人。あるいは常に現場にいないけれども、定期的にやってくる人。職種は色々あるけれども広くケアに関わっている人。あるいは、家族の方を取り巻く環境に「あと何が入ったらいいだろうか?」と考えているわけではまずなくて。自分がその環境に入った時に触媒となる感じがする。触媒となってよくわからない第三者「その役割なんなの」という、代表例としてひとつアーティストといえるかもしれないけれども、結果的に普段起きているけど言語化されていないこととか、現象としてはよく起こっているんだけれども、何だと敢えて話さないようなことがふわっと現れることがあって。そう考えた時にそれはリトマス紙みたいなもので、アーティストに限らず全然違う立場の人が入ることで、現場の空気が違って見える。そして、重要なのは入った本人が変われる。こういう風にも出来るんだな、ということ。このプロジェクトではそれを方言と呼んでいるんだろうが、そこに関心がある。そういう意味では(自分自身が)ファジーな関わりをしてきていると思っていて。必ずしもアーティストというわかりやすい立場で入る現場ばかりでもなく「何しに来たんですか」と思われているんだろうな、といつも思うんですよ。でも、自分としては何か自分自身が得たい/変わりたいという態度を持った上で関わった時に、何か面白くなったらいいよねと、そういうモチベーションの持ち方や順番なので、そのことを引き続き追及したい。そのこととタカハシ君が思っているテーマに共通するところがありました。
駒崎:
(個人的に)助成金取ってやりたいと言った時に「何やるのかなあ」と思って。それでやってみたら「あー」って感じでいろんな人が来てくれて。「何もしない感じでやりたい」というのもタカハシ君らしいよね、と。それはそれでやり方として面白いし、らしいなと思っていて。その一方で「福祉の方言を喋らないといけない私」という中で(施設の利用者である)保護者の方たちにこの活動をどう伝えるのかという心掛けはビシッと問いかけていきたい。そこは来年度、保護者の方を味方にしてほしい/理解者にしてほしい。そうするとこのプロジェクトが皆で考える場となって面白くなったらいいなと思います。
聴衆2:
「対等」や「集落」という言葉をよく使われていて、それをどう思考し続けていけるのかが大事だと思っています。僕自身かつて幼稚園教諭だったのですが、教育現場において「子どもと対等」という言葉を使うのは簡単だけれども、ではどうその対等な関係を続けていけるのか、そもそも何を対等とするのかはとても難しい。また、たとえば、今日登壇者としてアーティストの方たちから今年度の活動を語っていただいたように、どうしても大人の側から子どもの行動に言葉を与えることが多くなる。その意味でも何をもって対等なのかを考えていくことは、レクリエーションを語る上で大事だなと思います。あと、先ほど駒崎さんがおっしゃったことはとても重要な指摘だなと思っていて。確かに池上さんが言っていたようにプロジェクト単位としては成功も失敗もないと思うのですが、さんさんくらぶの事業の中でこのプロジェクトをやらせてもらっている。その上で、駒崎さんなり原さんなりとよく話をして、このプロジェクトにおける中間として、いわばキュレーターとしての役割をタカハシさんには果たしていってほしいと思います。ただの感想です。
タカハシ:
ちゃんと自分としてもやっていきたいと思っていて、そうできたら自分自身にとっても力となるので、ご感想いただいた通り、がんばります。
聴衆3:
音のワークショップとか結構経験があるのですが、つい何でもオッケーにしてしまう傾向があって。つまり方言がわからなくてどこまでオッケーなのか。(以前、さんさんくらぶを見学した際に)子どもが私の上に登ってきた時に、タカハシ君が「それはダメ」とか静止するんですよね。どう正すんだろうなと思っていたのですが、私が方言が全くわかっていなくて、私が何かを持ち込むというのだけではなくて、私も方言を学び子どもとの新しいコミュニケーションが分かったら楽しいだろうなと思いました。
聴衆4:
僕は、奈良にある「たんぽぽの家」のスタッフをやっている踊り手です。自分も親戚に障害のある人がいて、芸術と福祉の場に足を運んでいたら、いつの間にかたんぽぽの家にいたのですが。まったく福祉のことを知らずに入ってしまったので、安全というところを共有しつつ、それを崩さないと、という部分も、自分もダンスのプログラムをやったりするのですが、どういう視点で考えたらいいのか定まっていなくて。どんな考え方があるのか知りたいなと思って来ました。
駒崎:
子どもの遊び場として自己責任で遊ぶ「プレイパーク」という発想もあるので、「自己責任で踊るところやで」というのでやったらいいのかなと。
聴衆5:
僕は、タカハシさんと捩子さんの知り合いということで来させていただいたのですが、単純に2人がどういうことをやっているのかを具体的にお話を聞きたかったというのと、僕は福祉という場で仕事をすることがお題目としてあった上で、そういう方々と一緒に行為をするということはなかったのですが、たとえば去秋に在日コリアンの人たちのお話を聞かせてもらって、一緒に何か作るという仕事をさせてもらった時に、身体に宿っている踊りを探るということを前提にデイケアサービスに伺った際、単純に立てない、痴呆の方がいらっしゃる。
あと、これは僕が関わったわけではないのですが、若いダンスをやりたいという人たちを募ってやられていたワークショップ発表公演をされた方に聞いたのですが、ダンスをやりたいという人だったら自ずと「じゃあ、手を繋いでみましょう」と促された時にそうすると思うのですが、「いや、手を繋ぎません」という人がいたり。マスク外したくないという人がいたり。つまり、今後より一層普通にアート活動をしていくにあたって福祉に触れる瞬間は増えていくのではないかなと思い、その参考として今日は来ました。
聴衆6:
秋田さんの紹介で来たのですが、私自身は演劇作品をつくっており、一昨年まで大学に通っていて演劇をやり続ける理由として、他者の喪失感であったり悲嘆に寄り添っていく方法として、ひとつは医療従事者として治療面から関わるとか、あと、演劇の作品をつくるとかそれが上演にならなくてもいいと思うのですが、そうした人と密に関わることを通して、それを取り除くというよりは緩和していくということをやりたいと思っていて。それを今後どう言語化したりどういったプロセスでやっていったらいいかというのを考えたく、実際に助成を受けてプロジェクトをやられている方の話を聞きたいと参りました。
タカハシ:
今日はありがとうございました。成果発表会と思っていなかったのですが、途中報告会ということで、1年間を振り返れたらいいなと思ってやりました。想像を越えていい感じのイベントになったなと思って。ありがとうございました。

報告会で配られたレジュメ PDF版はこちら

集落の「中の人」はどう見たのか、方言を習うことについて

2018/3/11 秋田光軌

〇集落で「方言」を習うことについて

1、「方言」とはじぶんに正直であること
2、ただし、あくまで社会における「共通語」とのバイリンガルが目指される

正直さ(社会の外)×社会…すべての人が学ぶべき姿勢

「出家」とは何か…特別なコミュニティに自閉するのではなく、社会とは別の価値観を担い、それでも社会とかかわりながら、既存の価値観にインパクトを与えること(佐々木閑)

じぶんでも「方言」を実践中。

〇芸術と福祉、アートとケアの関わり

ケアについて最も有名なのは、ハイデガー『存在と時間』における「気遣い」。「気遣い」とはドイツ語ではSorge、英訳ではcare。まず世界や人間があって、その人間がケアを行うのではなく、ケアという行為によってはじめて世界が価値を与えられ、人間が人間たりえている、という指摘。すべての人間がケアを行っているし、ケアからすべてがはじまっている。「誰に教わったわけでもなく、他人がいることや物事があることに関心を持てる、配慮できる」ことの根源性(私たちが、スクランブル交差点でぶつからずに歩けるのは何故か?)。

以下は、メイヤロフ『ケアの本質』からの抜粋と、私のコメントをまざったもの。
一般にケアとは、医療看護や介護などの現場で使用され、「治療する」といった意味合いでとらえている人も多いかもしれない。しかし、それは広大なケアの、ほんのひとつの形にすぎない。
ケアとは、「あなた」が自らの力で成長し、より良い方向に変化していけるよう関わることである。まずここで大事なのは、「私」と「あなた」が、ともに世界にたったひとつの存在同士として関わっていけること。さんさんくらぶの「職員」であれば、子どもたちとの関わりは第一義に仕事上のものであるが、ケアという営みは仕事の範囲をはみ出してしまう。良い意味でも悪い意味でも、ひととひとの関わりになってしまう。もちろん、「第三者」であればケアが可能になるわけでもない。「第三者」の立場を維持するかぎり、子どもと存在同士の関わりをつくることなどむずかしい。ここでは関わる者の立場が問題になっているのではなく、「仕事」や「第三者」という前提を取っ払って、存在そのものをさらけ出す姿勢が問題なのである。
また、それは常に異なる仕方で子どもと関わりつづける責任をも意味する。子どもやじぶんの状態、あるいは環境についての変化など、日々振り返って省察する必要がある。上記著作では「リズムを変える」ことと表現される。

繰り返すと、つまりケアとは、みずからの存在まるごとで他者の存在に関係し、そのなかでさまざまな変数を見直しながら、他者の自発的な成長を信頼し、見守ること。さらにその成長を活性化させるべく、日々新たな仕方で関わり、リズムを変えていくことを意味する。ケアは、マンネリから最も遠い行為である。

私なら、「アート」とは「なんらかの素材を媒介とし、人がより良く生きることに向けられるよう、他者やじぶんを含めた社会に働きかける技術」と定義する。そうなると、ケアとアートはほぼ同じことを指しているのではないかと思える。アートのほうが既存の文脈を異化する性格が強いが、ケアが担っている「他者や社会(あるいはじぶん)の成長を信頼し、見守る」という方向性を忘れてしまうと、アートはその目的を見失ってしまい、単なる現実逃避に陥ってしまうのではないか(もちろん、ひとを傷つける表現はよくない!とかいう話ではなく)。そして、職場の文脈に回収されやすいケアの側は、アーティストから「リズムを変える」技術を学ぶことができるのではないか。

「芸術と福祉」をレクリエーションから編み直す
2017-2018メンバー・プロフィール PDF版はこちら

捩子ぴじん
1980年秋田県出身。2000年から2004年まで舞踏カンパニー大駱駝艦に所属し、麿赤兒に師事する。
舞踏で培われた身体性を元に、自身の体に微視的なアプローチをしたソロダンスや、体を物質的に扱った振付作品を発表する。さいたまトリエンナーレ2016にて実施『捩子ぴじん×障害者福祉施設・春光園うえみ ずによるダンス公演「わからない?」』
秋田光軌
1985年、大阪府生まれ。浄土宗大蓮寺副住職。浄土宗應典院主幹・應典院寺町倶楽部事務局長。大阪大学大学院文学研究科博士前期課程(臨床哲学)修了。劇場型寺院・應典院を拠点に仏教のおしえを伝えるのみならず、哲学対話や演劇的手法などを交えて、人が死生への問いに取り組むことができるよう活動している。
アサダワタル
1979年生まれ。大阪出身・東京在住。アーティスト、文筆家、博士(学術)。自称“文化活動家”。
オフィス事編kotoami代表、大阪市立大学都市研究プラザ 博士研究員。
サウンドメディアプロジェクト「SjQ/SjQ++」ドラマー。
池上綾乃
埼玉県在住。2014年、東京藝術大学音楽環境創造科卒業。2017年、同大学院芸術環境創造分野修了。演劇、アートプロジェクトの研究と実践を行う。修士論文では演出家阿部初美が進行を務めたワークショップ「産み育てを考えるプロジェクト」を題材とした。生きることと演劇、その周縁に関心を持つ。2013〜16年、アーツカウンシル東京主催、「長島確のつくりかた研究所」スタッフ・研究員。2016年さいたまトリエンナーレ「←」リサーチアシスタント。同年、音まち千住の縁 イミグレーション・ミュージアム・トーキョー「フィリピンからのひとりひとり、マキララ -知り、会い、踊る」プロダクション・コーディネーター。2016年10月〜17年3月、官民協働海外留学支援制度 〜トビタテ!留学JAPANの支援を受けてウェールズへ留学。町と人、ナショナル・シアター・ウェールズのリサーチを行った。
持木永大
京都精華大学卒業。洞窟派。オシリペンペンズ研究会。「ここにいていい」をテーマに在学中より学内にて展示、ハプニングの発表を行う。『ex.ナムジュンパイク(京都)』。サウンドパフォーマンス・プラットフォーム2016出演。スマートイルミネーションアワード2014年出展。
タカハシ ‘タカカーン’ セイジ(当プロジェクト主宰)
ひとりでつくることにこだわらず、その時々の相手により役割を変えて取り組む。
近年は、協働するにしても、つくらないことを前提にするか選択肢に含めるところから始めることを好む。スペース「世界」オーナー。主な取り組みに、「無職・イン・レジデンス」「ウイスキーがのめるまで」「彼方へ思考を飛ばすための巡業読書会w/秋田光軌」「穴を掘るw/斉藤成美」「読書フェスw/メガネヤ」「やってみた かったことをやってみるための時間 みるみるw/米子匡司」「?を自動販売機で売ろう!w/タチョナ、enoco、米子匡司」、個展に、「やってみたかったことを売ります買います展@FUKUGAN GALLERY」、グループ展に、パープルーム「パープルタウンにおいでよ」、その他関わったものに、古屋の六斎念仏踊り継承事業(ゲスト・ アーティストとして)、武田力「わたしたちになれなかった、わたしへ」(音楽・音響等として)「此花における踊り念仏」(企画協力等として)、「應典院寺町倶楽部執行部」「さんさんくらぶ」「めくるめく紙芝居」「すずかけ絵画クラブ」「あとりえすずかけ」「FLOAT」「糸賀一雄記念賞第十一回音楽祭」。

タカハシとみんなとの出会い PDF版はこちら

ねじさん
2015年11月6日に北九州市で出会いました。枝光本町商店街アイアンシアターという場所です。そこで行われたオールナイトイベント「野良」という不思議な企画で、副題に「飼い馴らされない表現のフェスティバル」とあってハテナ?となりましたが、それはさて置いておいて。僕もパフォーマーとして出演したのですが、その同じ企画に出演されていたのが、ねじさんでした。この日は、普段(?)と違って、ねじさんは金粉まみれになってダンスショーを観せてくれましたが、なんか今でも割と鮮明に脳裏に刻まれていて、すっごい体の使い方で、お腹のくねり方とか、うわあ!と思いました。そして、ナニジンだろう?と思いました。そのパフォーマンスの前に、楽屋で会ったのが最初でしたね。その時も異様なヒトだなあと感じていて、(ぼくはそんなこと感じていることはバレさすまいとできるだけ自然に振る舞おうと努力しました)ねじさんはずっとウォーミングアップをされていて、すごいストイックだなあと今でも覚えてますし、思います。僕はそれをときどき眺めながら、フェリーであまり眠れなかったので、居眠りしました。あ、大阪のアーティストで好きな人の話をしてちょっと花が咲きました。その1年後、奈良で行われている芸術祭はならぁと2016でねじさんが共演者を募集していたので、思い切って応募しました。ぼくはダンスなんてしたことないんだけれど、いっしょに半ナマのカカシになりました。それが終わった夜、定食屋でいっしょにご飯を食べているときに、さいたまでの障害者福祉施設でのダンスワークショップをしていて公演が近づいていることを教えてくれました。そこから、今のように(少し僕は緊張しているというか恐れていますが)話せるようになっていきます。
みつきさん
いつが最初だったか思い出せず…ちゃんとお話したのは、2016年晩秋の、ぼくがやった第二弾無職・イン・レジデンスに見学に来てくれたときですね。同い年ということもあり、今でも半分敬語で話しますが、なんか初めて会うタイプだなあと改めて思います。ねじさんや他のメンバーもそれはそうなのですが。この人には邪悪さというものがあるのだろうか?むしろ邪悪すぎて邪悪じゃなく感じちゃうんだろうか?としょうもないことを考えさせられます。一緒に読書会をはじめましたが、互いに多忙を理由にか今自然休止中です。一ヶ月くらい一緒に旅をして喧嘩をしてみたい人です。ぼくを純度100%にしたらみつきさんになる説があり。
アサダさん
どの年に出会ったのか調べてみると、2012年ということがわかりました。国立国際美術館で草間彌生展をしているとき、ぼくはちょうど無職で路頭に迷い、その美術館前にあった中之島4117というスペースにふらりと入りました。その時はバンド活動にも同時に悩んでいたはずで、僕は大卒で勤めた企業の直属の上司から厳しい指導を受ける日々に堪えかね、親への方便または自分の生業はこれやと言い聞かせ、退職後公務員を目指していましたが、受験対策に身が入らずライブハウスに出入りし恋をしたりしているうちに試験に落ちまくっていました。そうしたところ、NPOってゆー組織があって、公務員みたいな仕事ができるらしいと漠然と思い込み、よっしゃこれや!と(無試験なんだろうしと)。で、戻りますが、そういう流れで、アサダさんに会えたのは、中之島4117というNPOで、そこで相談事業をされていて、その案内に「音楽担当:アサダワタル」と書かれていて、よっしゃこれや!と勝手に就職相談と思い込み、内気だった僕は友人を連れて相談にいき…気づいたら障害福祉(とアート)の世界にいます。アサダさんからは影響過多で、音楽っていうのをここまでひろく捉えてもいいんだって当時も今も刺激をもらい、救われております。兄はいないのですが、兄っぽいです。勝手に。
池上さん
出会いは、はならぁと2015の武田力「わたしたちになれなかった、わたしへ」作品づくりと上演に関わったときのチームメイトだったということです。こんなに意気投合できるひといるのかあ!と、しかも(たとえが昭和ですが)年下でこんなに!と。でもそんな年下からも、よくマジで叱られています。いつも話すたび、目の前を開いてくれるというか、自分で開くようにいい塩梅で促してくれる人ですね。池上さんからは、庭の話とか聞くときが特に良いです。いっしょに庭をつくると楽しいことになるのかも。まずはいっしょに眺めるところからですかね。
もちきくん
はならぁと2015のとき、ねじさんのパフォーマンスに、その募集に応募して、現地で出会った仲です。去年からは飲み友達になれて、うれしく思っております。引越しを手伝ってくれたり、無理を言ってます…